講演会・サイン会

 


 

加藤睦子・講演会・サイン会

朝倉正福寺:(荒木村重の子孫)
2014年11月25日
演題『加藤又左衛門重徳、荒木村重、黒田官兵衛一門の友情・報恩感謝物語』

 

あいにく、大雨に見舞われた中を120名に及ぶ参加者が集われた。
その寺においての講演会は、ご住職の荒木氏の先導により、 全参加者による 『村重様供養』の読経に始まり、益々激しくなる大雨の音と本堂に響きわたる読経の大合唱は、士道の人・村重一族の涙かと思われる感動の空間となり、参加者の胸にも、時空を超えた不思議な感慨が沸き上がる場となった。
1988年、朝倉市の主人の実家、加藤家のお盆の行事に初めて参加した日から、遺された加藤家の古文書に興味を持ち、そこに書かれた土地やお寺を訪ね歩く16年間の歴史探訪が始まったことから、話しは始められた。

それは、荒木村重、黒田官兵衛、加藤(伊丹)又左衛門一門、三家の友情・報恩感謝の物語、悲話哀話が綴られた古文書に出逢うこととなり、激しく流動する戦国時代の中で結ばれた数々の感動の物語が、13年後に完成したのである。
官兵衛の人生最大の危機、有岡城1年1か月幽閉も、実は、荒木村重、官兵衛、加藤又左衛門三家族の助け合いの証。
朝倉市は、その三家族の友情・報恩感謝物語の証が目に見える形で、今も遺されている街であることが興味深く明かされた。
官兵衛、荒木村重が士道の武将・真の勇者として、戦国の武将たちに尊敬されていた真実の姿を浮き彫りにし、多くの共感と反響を呼んでいる。弥陀の教えとキリスト教の教えに生きた村重の生き様は、現代人が理解しえない次元にあり、誤解のままに汚名を着せられたまま現在に至っていることは残念なことである。

◆荒木村重一族と伊丹(加藤)一族は、もともと足利将軍家の重臣として、親しい間柄に有りました。
足利将軍家を滅ぼして天下布分を進めようとする織田信長の大軍を前にして、信長側に着いた荒木一門と足利将軍家に着いた伊丹一門は、どちらか勝った側の傘下に入り主従の関係を結ぶという盟約を持って、一族の存亡に賭け、緊急事態を乗り越えました。

足利将軍家がついに信長により滅ぼされた後、信長が「日本一の大器」と特別に信頼した荒木村重は、「伊丹城は堅固にして、なかなか攻め難し」と、近畿地方のかなめであった伊丹城を、形ばかりに数回攻めたと伝わっています。1年4か月後に、伊丹加藤一門は、荒木村重に「伊丹城・降伏状」を渡します。あの短気ですぐに皆殺しの命令を下して魔王と呼ばれていた信長が、よくぞ1年4か月も、村重に騙されていたものだと、驚きの事実が近畿地方の寺々の古文書には、書き遺されています。

伊丹・郡一門(親族)は、伊丹城を有岡城と改名し城主となった荒木村重の家臣となります。
友情盟約が穏便に果たされたのです!この時、伊丹一族は、殆どが本性の加藤を名乗ります。
村重一門がついに、信長の横暴に反旗を翻すまでの5年間、村重は、家族同様に加藤・郡・伊丹一門に温情を尽くしました。この時の報恩感謝は、その後村重一門が滅びた後も、先祖代々、決して忘れられることはありませんでした。加藤又左衛門重徳の報恩感謝は、九州草野に落ち延びていた村重の子・正七郎了保(今楊貴妃と謳われた、だしの子という説有り)を、現在の正福寺に迎えたのです。

 

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